東日本大震災から10年。福島県(豊間・四倉・岩沢・北泉 )地元サーファーからのメッセージ

ライター: WAVAL

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豊間ポイント

記事転載元:サーフライダーファウンデーション


東日本大震災から10年。10年ひと昔という言葉があるが、この10年は昔ではなく、今も歩み続ける復興への歩みの一つのカウント地点だ。

被災地の中でも特に第一原発の爆発事故という大惨事が起きた福島県は大津波の被害とともに放射能の被害を被り、復興の歩みはなかなか進まず、故郷に足を踏み入れることができない状況は今も一部地域に残るのが現状だ。やむを得ず福島を離れなくてはいけなくなってしまった人、他県などに避難しながらも福島へ帰る日を待ち続けて来た人、立ち入り禁止が解除されてすぐに再建に立ち上がった人、さまざまな福島の人の不屈のストーリーがある。コロナ禍の中で世界中の人たちがこの危機を乗り越えようとしている今、東日本大震災から10年という地点に立つ、豊間、四倉、岩沢、北泉の4つのポイントの地元サーファーの皆さんの生の声を届けたい。

今回はコロナ禍ということで現地には行かず電話でインタビューをさせて頂いた。あらためて震災当時の様子やそこからの道のり、そして今を話して頂く中で、私自身が感じたのは被災地の人の強さだ。人間はどんなにひどい状況に陥っても希望をもち続けそこから這い上がり、前へと進んで行けるということ。これからも波の宝庫でもある福島を応援していきたいと思いながらも、逆に生きる力を教えてもらった次第だ。まさに福島がこの10年を強く歩んで来たという証ではないだろうか。

現実に福島の海に入っている人たちの話をとおして、福島の代表的なポイントの今について少しでも知って頂き、今も続く風評被害をなくすとともに、福島の不屈の復興の姿に学びながら共にコロナ禍を乗り越えていければと思う。福島はこれからも力強い歩みを続け、見事な復興の姿と福島の素晴らしい波に乗るサーファーたちの笑顔を年々多く届けてくれるだろう。

震災後訪れた、瓦礫だらけになった場所に植えられた向日葵の花を思い出す。10年が経とうとしている今、太陽に向かって咲くあの向日葵は、福島の人のようだったなと感じている。

文・写真/米地有理子

1.豊間ポイント


鈴木孝史さん(サーフショップ「Slow Dancer」オーナー、写真は本人提供)

震災の日はうちに居て、息子(鈴木大輔プロ)が店番してた。店の中、みんな吹っ飛んで、板も倒れて収集がつかない状況。そのときは津波が来るとは思っていなかったね。車に壊れていない板を積んで、うちに持って来ておいた方がいいなという程度。15時10分に3メートルの津波が来るってラジオで言って。テレビは映らなくなってたから情報が何もなかったね。うちの地区(薄磯)は狭いところだけど、高台があったからそこに行こうってことになって。周りの年寄りや子供に逃げるベって言って歩いて、最後に高台に上って、15時25分ぐらいに津波が来た。うちの親父の世代は、ここには津波来ないっていう頭があって、親父が下に下りて行ったら津波が来ちゃった。84歳。亡くなっちゃった。


ボランティアの人たちが瓦礫を撤去した場所に向日葵の花を植えていた

2日後の13日に見つかった。屋根ぐらいある瓦礫の下にいた。早く見つかって不幸中の幸いだった。薄磯は250軒ぐらい家があったけど残ったのは6軒だけ。120人以上が亡くなった。豊間は550軒ぐらいあるうち300軒ぐらいが壊れたり浸水。90人近く亡くなったね。今だに遺体が上がっていない人もいる。原発の騒ぎで自衛隊、消防の人が撤退して行った。スポーツ施設に遺体がずらって並べられていて、番号つけられていて、何番か確認して。次の日に医者の検死が行われて、葬儀屋を連れて引き取り。その時に3号機の爆発があった。俺たちはラジオで聞くぐらいでわからなかったけど。みんな撤退し始めた。わからないで作業しているのは家族を亡くした人、探している人。本当に悲惨だったよ。遺体があってもどうしたらいいかわからない。瓦礫が道を塞いで陸の孤島になって。歩いてしか動けなくなった。元気のいい子供たちは津波で流されても生きていた子がいた。年寄りは服の重み、波の勢い、寒さで死んじゃった。親父の火葬が終わって、娘が東京に居たから東京に避難した。

周りの人たちの家がほとんどなくなっていて、仕事に行ったままの格好だから、サーフボードメーカーやウェットスーツメーカーに服を集めてもらって。宅配便が3月31日に受付を再開して4月1日には届くっていうので、それに合わせて地元に戻って、家がなくなった人たちに配ったよ。みんなに中古の服から新品の服、その他たくさんの支援を頂いたよ。それを忘れられないよね。忘れちゃいけないって思っている。波乗りしていないのにサーフボードやウェットスーツを買ってくれた人もたくさんいたよ。店を再開したらって。


サーファーの良き理解者の家の基礎に書かせてもらったメッセージ

原発の事故は最悪だったね。こんなに厳しいのかって1ヶ月、2ヶ月経って思ったね。こんなに原発の事故が長引くとは思わなかった。生まれ育った場所から周りの人が移っていなくなったよ。少しでも戻って来てくれたらと思った。豊間のサーフィンの良き理解者のおばちゃんがいて、その人の家の基礎の部分に「We will stand strong again」ってペンキで書かせてもらった。

震災前から地区の海水浴の監視を手伝ったり、町のゴミ拾いの手伝いをして、地区の人との良いコミュニケーションとっていたんだよね。豊間の駐車場でやる町の一周忌の前の週に、ゴミがいっぱいだったんだけど、釘とか小さいガラクタをサーファーたちで片付けていたら、町の区長さんが来て、「一周忌終わったらみんな海に戻って来て。このままだと地区が沈んでしまうから、波乗りしに戻って来てくれって」言って。その後、道路を確保して整備したりするのにサーファーが200人ぐらいボランティアでいろんな場所から来てくれて。1年後から波乗りは再開したね。だけど、放射能を嫌って波乗りに戻らない人もいるね。


新しく整備された豊間ポイントには防災緑地がある

その後薄磯ではなく豊間に新しい家を建てて2014年の2月に移って、お店は4月に再開することができた。一昨年、お店の40周年パーティーやったよ。息子家族は宮崎が好きだったから移住して向こうで波乗りしている。海岸線は変わっていないけど、堤防が高くなったり、防災緑地ができたね。

2018年に新しい駐車場ができて、豊間の町の人たちと町おこし的にサーフィン大会をやったよ。震災前まで塩屋埼カップというのをやっていてね。宅地は7年ぐらいかかって。開発に時間がかかりすぎたね。待ってられた人は戻って来たけど。

今は若い子があまりいないけど、サーファーの子供たちがやるようになってきているね。3年前ぐらいからソフトボードとか子供用のウェットスーツを多くして、無料で貸してるよ。子供たちに帰ってきてほしいという思いがあって。だから若い子たちが借りに来るのを楽しみにしている。豊間地区で町おこし的にサーフィン体験とか海で遊ぶ企画をやったけど人数はあまり集まらなかったね。スタッフの方が多い感じ。でも少しずつでもっていう感じだね。


懐かしい海岸線は変わらない

海は少しずつ活気を取り戻しているよ。でもこの地区に今まであった蒲鉾とかの水産加工業者がなくなってね。雇用を生む産業がない。原発の影響で魚も売れなかったり、風評被害が強いよね。米とかもちゃんと検査していてもね。それから今まで波乗りする人が泊まっていた民宿がなくなったからね。昔の雰囲気で民宿をまたやってくれたらいいなって思う。宅地が安いから若い人が家を建てたりはしているようだけど。人が増えれば、カフェとかやる人も出て来るかな。

震災前からそうだけど、住んでいる人とサーファーのいい関係を作ってきたので、ビジターの人にはそれを壊すようなことをしてほしくないね。ゴミの問題、駐車場の問題、自主性に任せるしかないんだけど。最低限のルールとマナーを守ってほしいね。

10年が経とうとしているけど、個人としては、波乗りしてなかったらめちゃめちゃだっただろうね。波乗りしていたからストレスを解消できて、周りの仲間たちも落ち込んでるんじゃないかって気にしてくれてどこかに波乗り行こうって誘ってくれて。波乗りしててよかったなって。それと、波乗りしていると打たれ強いよね。自然のことだし、仕方ないって思って。こんなに話するの初めてだよ。大変だったということ、今まではみんな話せなかったんじゃないかな。少しでも波乗りする人たちの助けになれればいいなって思う。助けられる側じゃなく、助ける側にならないとって。コロナだってもう少しみんな我慢していかないとね。ワクチンもこれから来るしね。


伊藤義隆さん(サーフショップ「Style surf」オーナー、写真は本人提供)

こないだの地震は恐かったねー。壁が少し崩れて、井戸水はまだ汚れているよ。大震災を思い出させたね。10年経つ中で、いろいろ変わったよね。子供たちも大人になったし、自分も歳を取ったしね。ホームポイントが変わったということで感じることは、まず海岸の地形。豊間はどこのポイントが波なくてもだいたいあって、小波用の板は必要なかったけど、最近は必要な時もあるんだよね。地盤沈下の影響かなって。自分のお店は中通り(内陸部)にあるんだけど、お店は盛り上がっていないね。まだ海のイメージ良くなくて、新しくやりたい人があまりいない。震災から海離れた人もなかなか海に戻れない感じで。でも海側のサーフショップは頑張ってる。コロナの影響で大会が中止になったけど、今年は四倉でNSAの級別選手権を開催するという予定だからね。やれるといいけどね。

豊間の駐車場は町で復興計画を建てた時に、サーファーのためにもって考えてくれたもの。シャワーとか水を使うのは主にサーファーだと思うけど、税金で水道代を払ってもらっているわけで。実は昨年、駐車場で県外のサーファーがキャンプしてはいけないって張り紙している中で障害者用の駐車スペースを使ってキャンプしたり、テント張ったりしていて。今まで地元のサーファーが地元の人とコミュニケーションを取って、一生懸命認知してもらって守って来たポイントなんですよ。次の世代の地元のサーファーがオリンピック選考会に行くぐらいになるっていうことはみんなの夢で。今できることは環境を維持して次の世代に残していくことが俺らの役目だって。鈴木さん(サーフショップ「Slow Dancer」オーナー、鈴木孝史さん)とゴミ拾いとか率先してやって地元の人の理解をもらって、今あたり前にサーフィンできていることができなくなるのは悲しくなりますよ。だからやれることを今やっていこうって。震災後、この環境が残ったということを良しとするしかないと思っていて。もっともっと盛り上がってほしいけど、そういうルール、マナーを守らないビジターには来てほしくないです。無法地帯になってはいけないと。

震災でいろんな人から受けた恩があるから、恩返しということで福島の海で大会ができたらいいなってみんなとも話していて。福島はコンスタントに波があって、良い大会になると思うんですよ。サーフィンの大会で会場提供して、サーフィンってこんなに素晴らしいんだっていうことを見せたいなって。10年は長いですよ。でもようやく生まれ育った場所に戻ってもまだ不便だったり、人が居なかったりっていう場所もあって、復興は道半ばだと思います。だからこそ復興五輪としてオリンピックをやってほしいですね。コロナが大丈夫かってことだけど、やるとなれば行きたいって思っていますよ!サーフィンがオリンピック競技になったんですから。

2.四倉ポイント


猪狩優樹さん(サーフショップ「GLORY SURF」オーナー、写真は本人提供)

震災の前の日、海上がって着替えてたら地震で。それで次の日は天気が良かったけどフラットで珍しくサーフィンしていなくて。大地震が起きて、子供が保育園に行ってたから迎えに行って。津波が来るとは思っていなかったんですけど、テレビ見てたら大津波の情報が入り、これはやばいって。子供を連れて病院勤務の嫁さんの所に行ったけど、嫁さんは仕事だから帰らないと。大津波10メートルってやばいぞって思いました。家は高台だけど海まで5分のところで。海側ではなく山側から家に帰りました。途中、サーファーのお客さんにすれ違って、「だめだ、やめろ!」って言って。とんでもない津波でしたね。うちの町は全部火事になって。


四倉の町も津波で大変な被害を受けた

 


砂浜に花が捧げられていた

夕方お店に行ってみたら浸水はしてるけど津波をよける場所だったので残っていて。嫁の実家が海沿いだから見て来た方がいいよってことで、ドライスーツを着て、引き波と一緒に海沿いに向かって行って。そしたら悲惨な光景でしたね。老人が倒れていたり、側溝に人が居たり。身体障害者の人が懐中電灯を付けたり消したりしている建物があって、行ったら案の定、身動きが取れないようで、消防に電話したらお店に来てくれてカヌーみたいなもので一緒にそこに向かいました。3人ぐらい助けました。

その後はお客さんの家とかを転々として、栃木のコテージがある所に避難しました。ちょっとしてからお店の様子が気になったので戻ったら、お店の中にあった時計とかサングラスが盗まれていました。盗難のプロみたいな人たちが仙台の方から南下して来てたとか聞きました。


海に人が戻りだした四倉の夏

その後、四倉に戻って震災前とは違う場所、もっと海のそばで新しくお店を始めて。どういう風にこれから復興していこうかって福島のサーファーの皆さんと話して、震災2年後に初の大会(NSAダブルAの東日本サーフィン選手権)を四倉ビーチで開きました。次の年にはNSAのトリプルAの大会も。震災2年後から四倉の海水浴の監視に関わっていて。海水浴場はその町の区長会がやっていて、年齢が高い人が監視をやっていて、サーファーに手伝ってもらいたいっていうことで。手伝う代わりに、四倉はいい波なので、海水浴エリアを狭くしてもらって。それで、海で何かあったらサーファーが助けるっていう感じで。ビーチクリーンの実績もあって。民間とサーファーが協力している土地なんです。だからサーフィンも大会もウェルカムで、町が応援してくれて。水道、シャワーも解放してくれて、大会の時は駐車場を全部サーファーに解放してくれます。四倉ではサーファーがめちゃくちゃ増えています。地元も県外も。コロナの影響でひきこもらないようにアウトドアを親子でやる感覚ですかね。それと医療従事者も多いです。ストレス解消になるんでしょうね。去年はコロナで中止になりましたが、今年はNSAの級別選手権をやる予定です。徐々に大きくしていこうという感じで。

四倉は他のポイントよりも復興のスピードは早かったですね。震災の時は本当に悲惨な光景でしたよ。それから風評被害にも悩まされました。福島はローカルオンリーのポイントもあるのですが、四倉はオープンなポイントにしていこうという動きがあって、ルールとマナーを守ればみんなが入れるポイントにしていこうということで、みんなに来てもらえるようになったポイントなんです。海水浴も再開して、サーファー以外の人も海に来るようになって。それが風評被害を払拭してくれましたね。もちろんモニタリングもしていますし。休みの日はサーファー多いです。


サーファーにさまざまな配慮をしてくれている四倉の駐車場

駐車場もシャワーも全部タダ。震災後最初の頃は普通が幸せなんで、普通に戻ってほしいと言ってましたね。今は四倉が気軽に遊べる場所になってほしいです。キッズから大人までスケボーや自転車の練習する広場もありますから。天気がいいから海に行こうかみたいな自由に遊べる場所になってほしいですね。今は若い子も出て来ています。キッズサーファーの育成をしているんですよ。波が大きいので乗れるまでは大変ですけど、乗れるようになればいいボトムターンする子が出て来るんじゃないかって。レールを使ったサーファーを育てたいって思っています。震災があったことで、まだまだやれることがあるかなって。マイナスから始まったので、まだまだプラス要素が増えて来るかなって思っています。

3.岩沢ポイント


関根乃さん(写真は本人提供)

岩沢ポイントは今工事中。2年前から始まった本格的な海水浴場の復興工事で、工事期間は立ち入り禁止。震災後に沖合に風力発電が3基建設されて動いているんだけど、そのケーブルが海水浴場の砂の下に埋まっていて、重機が動かせなくて工事が止まっていたんだよね。3月31日に工期終了ってことだけど、海の日までにできるかなって思ってるよ。

実は岩沢ポイントは復興が一番遅れているね。立ち入り禁止前までは震災1年後に入りだしてからずっと波乗りしてる。去年のゴールデンウィーク、お盆は他県からもサーファーが来てたね。震災1年後に海入った時はインターネットで非難されたけどね。10年後、みんなガンで死んでるとか。岩沢の瓦礫が撤去されてから年2回ぐらいみんなでクリーン作戦したりしてた。


震災後1年の岩沢ポイント


およそ1年ぶりにホームポイントに戻ったローカルサーファーたち

河口の工事は去年終わって、以前は河口のそばまで車でいけたけど、今は行けなくなったね。もう一つの河口は波のいい時にローカルが集まったね。護岸工事をやったから砂が変わって、ポイントとしては別物だよ。玉石もこなくなるし。ビーチも防波堤で埋まって狭くなったね。

前は広野町に住んでたけど、今は楢葉町の中古住宅に住んでる。楢葉町は帰還率は3割、原発関係者を含めたら5割超えぐらいになったかな。ショッピングセンターができて、食べ物屋も復活して、生活できる環境が整ってきたね。だいぶ暮らしやすくなったよ。自宅はまだ帰還困難区域だから、許可ないと入れない。立入禁止の場所以外は普通に生活できてるんじゃないかな。新しい消防施設、工業団地が建設されている。農作物も米や野菜を栽培するだけだったけど、楢葉町ではさつまいもを栽培してイモ焼酎作るみたいな。お米もカントリーエレベ―ターを導入して、玄米までの作業はそこで共同でやったり。今までみたいな農業じゃなくて次の時代の農業をやろうというような感じで動いているよ。新しいものをどんどん取り入れてやっている。

原発関連でロボット技術も先行して誘致、開発している。今は廃炉における技術を蓄積する流れに変わっているね。いわきや郡山では、水素ステーションで水素で走る車の普及を進めようとしている。福島は一度全部ぶっこわれているからね。新しいビルドアップができる気がしてる。10年前はひどい状況だったね。まさにみんなマスクを着けてパスに乗って第一原発に行くという光景を見てたけど、今はなくなったね。3年ぐらい前まで第一原発に仕事で行ってた。最初は構内に入る時はマスク着用、そのうち構内はいらなくて、現場に入る時だけマスク着用に変わった。そのうち、現場でもこういう場所以外は着けなくていいよって変わってきて。

今は仕事辞めてのんびりしてるよ。アルバイトしようかなって思ってるところ。12年前まで東電の社員だったからね。震災後は除染作業、草刈り、土建屋さんの放射線管理とかの仕事してた。一般の人よりも放射線の知識はあるから、それほど放射線の恐さはなかったよ。10年経って、これからは岩沢ポイントにしても、工事でどういう風に地形が変わっていくか見なきゃならないし、それを見ながらスローペースで波乗りやっていくしかないかなと。この辺のローカルが一番感じたのは、サーフポイントとして恵まれていたってことかな。


本格的な海水浴場の再開に向けて現在工事中の岩沢ポイント(関根乃さん提供)


相変わらず波はあるが、工事中のため現在は立ち入り禁止(関根乃さん提供)

いいポイントがいっぱいあって、人も混まなくて。震災になってホームポイントが全然やれなくなって、四倉とかにも行ったけど、そこから南の豊間とかの壊れている姿を見て仲間みんなで泣いたよ。瓦礫の山になっているのを見て。次の年に岩沢で入れるようになった時はすごくうれしかったし、自分たちのところに戻れたっていうのがあった。少しずつ昔から知っている人たちが入るようになって、休みの日には20人、30人が入るようになったのはうれしい気持ちだったね。俺たちがまだポイントが全然ない時代に、新しいポイントを見つけて入れたのは幸運だったと思うよ。感謝してる。だからみんなも楽しんでねって。今はコロナだからさ、また普通に行き来ができるようになったらおいでよって。その頃には岩沢の施設の工事も終わってるんじゃないかな。またみんなで波乗りしようよって。

4.北泉ポイント


鈴木重紀さん(写真は本人提供)

震災当時はサーフショップをやっていて店にいました。午前中海に入って。その日は何か嫌な感じがして、今日は上がろうって上がりました。揺れがあまりにも強くて、外に出たら、周りのブロック塀が倒れてたり。身動きが取れなかったです。お店は海から近い場所だったので、友達が逃げながら津波来るからここやばいよって言って。一緒に逃げました。周りの人が津波来るって屋上で騒いでいましたね。サーフショップまでは津波が来なかったんですけど、自分の家には近づけない状況で。

その後、原発が爆発して、町が機能しなくなって。ちょうど嫁さんが来週ぐらいに子供産むって時で。病院に行ったけど、先生も避難していて。嫁さんの実家に避難して、それから中通りに知り合いが居たのでそっちに移動して何日間かお世話になって。福島市内でたまたま産婦人科があって、診察してもらって。今産まないと産む所もないし無理だよって言われて、子供は帝王切開で1週間早く産まれました。子供が産まれても避難しなきゃいけないし、自分の家もなくて。嫁さんがお腹切って3日ぐらいで退院して、岩手県の親戚の家にお世話になりました。動き回っていましたね。子供のために用意してた物も流されたり、使えない状態になっていて。仕事もしなくてはいけないので1回地元に戻って、仕事をしていたウェット工場の再開の手伝いをしました。でも放射能の心配もあって、ちょっと離れようと家族で新潟のサーファーの知り合いに連絡をして新潟に移りました。新潟のサーフィン関係の人、チーム員の人に紹介してもらってアルバイトしました。いずれは福島に戻りたいと思い、様子を見ながらいましたね。


復興に向けてビーチクリーンをする有志


2013年頃の北泉海岸


2013年に慰霊祭が行われた

2年後、借り上げ住宅の家賃も出なくなるということで、何とか気をつけながら生活すれば子供を育てられるんじゃないかって福島に戻って来ました。最初の頃は福島には戻れないって感じでしたけど、今のタイミングならって思いました。戻ってみても、まだはちゃめちゃでしたね。ビーチも防波堤も壊れていて。復興の手伝いをしたいと思って、大型の免許を取って、ダンプで福島の復興作業に関わって今に至っています。来年ぐらいまで、汚染土壌を運搬する仕事をメインでやります。やらないと変わらないんで。

サーフショップはやっていませんが、サーフチームはやっていて、みんなでビーチクリーンをやったり、大会に出たりしています。震災の時に産まれた子供は3月14日で10歳になります。

みんなストーリーがありますね。震災前は福島は水害もなくていいところだねって言ってたけど、自分たちの場所で最悪なことが起きて。10年。復興はだいぶ進んだと思います。終わったというわけじゃないけど。放射能、原発の問題は一生続く話だと思います。それとどう向き合っていくか。それだけですかね。原発とかがまた爆発しないでほしいと思います。


震災後初のビーチフェスが行われ、多くの人が北泉に集まった


夜空に上がる花火に感動もひとしおだった


JPSAの大会も行われ、ようやくここまで復興したことを実感

ここまでやって来たので。先日の地震は久しぶりにやばいって思いましたね。すぐ逃げようって。落ち着いてはいました。津波の恐さを経験しているので。うまく言えないですけど、どこに住んでいてもいろんな被害があって、誰でもこういうことがありえるって伝えたいですね。いつ自分のホームが奪われるかはわからないです。

ホームポイントの北泉は、人それぞれの考え方があって、最初はサーフィン自粛している人もいました。みんなが入りだしたのは結構後だったんじゃないかなと。自分は早めに入りました。生きている間は入れないんじゃないかって思っていましたけど、水質を調べたら意外に大丈夫で、半信半疑だったけど復活しました。

震災後2年間、新潟で生活して、大会も回れなくて、戻って来て復興の仕事をしながらサーフィンを続けて来て、大会に出たい、全日本で優勝したいって思いました。2年前、今年の全日本にかけようと思っていたら、準決勝で負けてファイナルに行けなくて、悔しい思いをして。グラチャンは狙っていなかったけど、ポイントでぎりぎり選ばれたので、もう1回チャンスが来たって思って。その試合がうまくはまって、グラチャンで優勝できました。

まだ地元に若手のサーファーが居ないので、ちょっとでも増えてほしいって思っています。一時期、海に誰も居なかったけど、今は夕方犬の散歩とか人がちょっとずつ戻って来ていて。北泉の公園も増設されてどんどんきれいになっていて。元どおりは難しいと思うけど、これから少しずつ新しく変わって行くので、皆さんに波乗りに来てほしいですね。昔ほど波は良くないけど、混んでいないし、自分の好きな波に時間帯で乗れると思いますので。地元開催の全日本選手権、やってほしいですね。試合やるにはコンスタントに波があるので。大会で福島波いいんだよねって言われたいですね。自分のエリアは放射線落ち着いていて、この辺りで10年近く居て体がおかしくなったって人は聞かないですよ。


また憩いの場所になりつつある北泉ポイントへのエントランス


駐車場もきれいに整備され、サーファーも戻ってきている

執筆者 米地 有理子

*本記事はSFJより依頼、又は許諾を得て掲載しております。


・サーフライダーファウンデーション(Surfrider Foundation)とは

カリフォルニアのサーファー達が、自主的に始めたサーフポイントの水質調査活動。それがサーフライダーファウンデーションのルーツです。サーフライダーファウンデーションは、1984年にカリフォルニアで発足しました。日本では1993年から活動を開始、2011年に一般社団法人となりました。現在世界23ヶ国で活動、約25万人のメンバーがいる国際環境NGOです。

*国際環境NGOとは?
非政府組織 : Non Governmental Organizations – NGO、国際的な規模で活動する、市民の組織です。国内においては政府を補完する役割を持ち、環境保護活動に重要な役割を担う組織です。

*一般社団法人とは?
「民による公益の増進」を目的に2008年に施行された「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律」に基づいて設立された、営利を目的としない法人組織です。SFJは将来「公益社団
*参照元:http://www.surfrider.jp


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